牢獄機械文書群 日記
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2011 1 2 3 4 5 6 7 8
2010 12
author:
Mamiya
Midori
1985 -
02何もかも面倒だ
04今日は食べ過ぎた
04流行りの話題
04確定申告もしないと
06疑い
08物語素と詩的言語
09ほしをたべる
11
12no-title
13計画停電
18昨日のこと
18no-title
20kaj Dazai
22no-title
23また『ジャン』のこと
29この一週間
2011*03 Marto
02 - 23:44なにもかもめんどうだ

「この日記って無印良品で売ってそうな色だね」と言われてしまった。Esperanto の日記もそうだけど、エディタ (gvim) での配色をそのまま使っていた。精神的に安定する色だと思っていたんだけどな。

そんなわけで、なんとなくブルーナの絵本っぽくしてみた。それから、趣味あれこれというページを設けてみた。


左上の絵をたまに写真やCGトレースだと思っている人がいるけど(じっくり見る人もないだろうから)、43色のドット絵で、いつだったか描いたモン・サン・ミッシェルを切り抜いたもの。

モン・サン・ミッシェル  ->  モン・サン・ミッシェル

何がきっかけだったかは忘れてしまったけど、2年くらい前に、急にドットで絵を描きたくなったので、試しに手持ちのハインライン『月は無慈悲な夜の女王』(早川文庫)の表紙などを見ながら描いてみた。

月は無慈悲な夜の女王 月は無慈悲な夜の女王

おりがみにハマったり、ジグソーパズルにハマったり、ドット絵にハマったり、ピアノにハマったりするのだが、熱が冷めるとまったくやる気がなくなり、ある程度時間が経つとまた熱中し出すという、我ながら妙な性格だと思う。

とにかく、熱中しているときは、よくこんなの作ったなと自分でもあきれるようなものを作れるみたいなのだが、気が乗らないときはまるで出来ない。


べつに完璧主義でもないし、努力してうまくなろうと意気込んでいるわけでもないが、いちど没頭すると没頭したままになる性格なんだろうと思う。僕は普段は鉛筆画などの絵がヘタだが、6年前に急に描きたくなって描いた人物スケッチがやたらちゃんとしていて、いい気になってさらに描こうとしたら、もう没頭できずにまたヘタに戻った。

このラッキーな時間が小説に訪れると良いのだが、なかなかうまくいかない。このあいだ書き終えた長篇は、時間が長くかかっただけあって、そういう期間がちょいちょいあったのだが。


結局なにか創作的な行為というのは(僕の場合)、やる気の問題がすべてではなく、ちょっとアホになって没頭していられるかどうか、というのも大いに関係がある気がする。


04 - 00:52きょうはたべすぎた

近ごろ再発した蕁麻疹がひどくなりだした。前に出たのとほとんど同じなので、おそらくまたストレス性のものだと思う。僕にどんなストレスがあるというのだ。憂鬱に生きたくはない。かといって底抜けに陽気に生きたいわけでもないので、そこそこ楽しく過ごせたらいいのに、と思う。


長篇が終わってからこちら、さまざまなかたから本を薦めていただいているので、『ブリキの太鼓』などいろいろ併読している。

『イルクーツク物語』は読了した。とても面白かった。筋は、へえ、といったところだったが、構成や人物の描き方や、表現方法などに魅せられた感があった。個人的には同作者の『父と子』(ツルゲーネフに非ず)よりも面白く読んだ。

それに、以前にも読んだが、著者アルブーゾフのエッセイが大変面白い。虚構作品を作る人間としてはいろいろタメになるような内容。個人的にはモームの『要約すると』よりも、コクトーのエッセイや、このアルブーゾフのエッセイの方が、ちかしい感情が持てる。


モームのもなるほど面白い――たとえば同時代人が「これだけは読んでおけ」と主張するような本が、数十年もしないうちにまったく読まれなくなるとか――僕はその辺り同感なので、「現代ではこれを読んでおくべき」というような大学生的なノリには合わせないようにしてきた。それが良いことか悪いことかは知らない。そういうノリが好きでないことは確かだ。

しかし落ち着きすぎているというか、達観的な態度にも見える文章は、あまり僕の心を揺さぶらない。試行錯誤の途中である感じや、ちょっとイタいくらいの感じが欲しいところだ。


午後、近隣市の図書館に行き、本を借りて読んだ。借りた本は以下の三冊。

+ デス博士の島その他の物語 [ジーン・ウルフ]
+ クジラの島の少女 [ウィティ・イヒマエラ]
+ ヴィクトリア朝妖精物語 [風間賢二編]

『ヴィクトリア朝妖精物語』北原さんの紹介による。僕の「禿頭姫」に関連して、髪の生えない姫の物語として「メリサンド姫――あるいは割算の話」を紹介してくれた。

「禿頭姫」は、ある朝姫が起きたら髪が消え失せていた、という始まり方だが、「メリサンド姫」は童話(ベタ)を踏襲して、悪玉妖精によって赤子の姫がハゲの呪いをかけられるというもの。そこから物語は二転、三転する。しばしば滑稽物語に分類される妖精物語、巨人物語などと較べてみても面白いかもしれない。大変面白く読んだし、他の収録作も面白く読んでいる。


閉館後、地元で有名な大手の書店に立ち寄ってみたが、目当ての新刊は発見できなかった。地方に住んでいると苦労するのがこういうところだ。僕は基本的に、すでに欲しいとわかっている本は行きつけの書店に注文して買っている。もう十数年前からそうだ。だが、たまに書店と取次先での連絡がうまくいかずになかなか届かないという事態もあり、入り用のときに手に入らず、大変な思いをしたこともある。……しかしあの書店になければ仕方ないので、行きつけの書店でブックライナーで注文してもらうつもり。


そして書店で偶然会った友達の sue さんたちと喫茶店でコーヒーを飲んだ。愉快な時間を過ごした。別れてのち、僕が気に入っているインド料理の店でカレーを食べたが、なんだかんだで食べ過ぎてしまった。何はともあれ、こうして日記を書きまくっているということは、つまり捗っていないということだ。何事もほどほどが一番だと思うよ。


04 - 14:19はやりのわだい

無駄に記憶力と思考力と時間を費やしてしまわないために、トピックの取捨選択をすると、カンニングもパンダも僕が設けたフィルターを通過しない。あまりにたくさんのトピックに意見を持つことはできないし、そんな必要もないので、それについて考えない。どのみち、あとでこの記事を見返すと、自分で「えっ、なにパンダって?」と思うことになるのは明白だと思うので、いちいち書かないでも良かったが、物心ついてこのかた、世の中のトピックと人々の関心がどんどん遊園地みたいになってゆくように感じられて、なんだか『ゲロゲロプースカ』の世界に生きているみたいだ。


04 - 16:10かくていしんこくもしないと

久々に坂上君から電話。小説のことなど話した。ともかく元気そうで良かった。いきなり攻撃呪文を唱えられてから連絡がなかったので、石の中にいるのかと思っていたが違った。

[JPEG] (道を歩いていたら見つけた桜。)

積読の中にトーマス・ベルンハルトの『消去』があった。頭を抱える。どれだけの本を未消化のまま忘れていることか。でも、ま、いいか。ノルマ的な読書はしたくないし。


きょうは、きのうより体調が悪かった。あすは友達と勉強会に行くことになっていて、もういろいろ大変だ。しかし「友達」という単語を日記でこんなに使うことになるとは思っていなかった。僕には全然友達がいないような気がしていたけど。しかし良い意味で癖の強い友人たちばかりだなーと改めて思った。


06 - 09:20うたがい

元外交官を招いての勉強会では日米同盟や中東情勢の話が主だった。耳に新しい話がたくさんあったというわけではなかったけれど、機会を得て改めて考えるというのは重要なことだ。

しばらく食事を取ることを忘れていたので、会が終わったのち、同行した友達と食事をした。友達は外交やハーバーマスについて少し話し、僕は文学の機能について考えていた。


高校に通っていた頃から、僕が特に関心を持っていたのは、虚偽意識(イデオロギー)についてだ。人の心が、ある一面ではとても単純で、操作されやすく、強権的に支配されていることに無自覚であるという事実は、度々目撃してきた。「すべての牛は茶色い」という空気(ムード)に適応すれば、その人の目には黒い牛の姿が映らなくなる。その人に対して「黒い牛」といえば、おそらく笑うだろう。

そうした虚偽意識に囚われた意識に自己言及的な疑いを生じさせることが、虚構の機能の一つだと思う。「すべての牛は茶色くないかもしれない」という疑いは、直截に投げかければ反撥を招くかもしれない。しかしその疑いを虚構(物語)によって表現することは、虚偽意識の檻を突き崩す柔らかな鉾(ほこ)になり得るのだ。

勿論、虚構は、虚偽意識をより強固にするプロパガンダとしても機能する。確信を深めることと疑いを持つことでは、前者の方が易しい。虚構として描くことも、前者の方が易しい。しかし僕にとっては後者の方がよりいっそう意義深い。虚偽意識に対して疑いを生じさせないような虚構による訴えには、芸術的な面からいっても魅力を感じない。


08 - 01:57物語素と詩的言語

先日SPACの『グリム童話-少女と悪魔と風車小屋-』オシキさんと観劇した。グリム童話の「手なし娘」を原典にしていたのだが、童話の物語と幾何的な景色、図画的な人と物の動きが融合していて観応えがあった。僕もまた神話、童話、詩的言語からなる散文作品というものを考え続けている時期であるし、『ヴィクトリア朝妖精物語』を面白く読了したところでもあって、いろいろ状況が重なり、良いタイミングで良いお芝居を観たと思う。

観劇後、友達の西河真功君も加えた三人で喫茶店で話した。楽しい時間を過ごした。西河君には忙しい中付き合ってくれて大変感謝している。オシキさんとは夕食後バーボンを飲みながら積もる話を消化し、また楽しく過ごした。さらにピンチョン『競売ナンバー49の叫び』を戴いた。僕の唯一の心残りは、食後の楽しみに買った桜のバウムクーヘンのことをすっかり忘れていたことだ。それはともかく、文学や芸術について衒いなく語ることのできる友人同士で話せた幸福なひとときだった。

[JPEG] [JPEG]

09 - 04:24ほしをたべる
[GIF] [GIF] 『ラモックス』(R.A.ハインライン)

考えていた小説のアイデアを2つほど没にし、確定申告も面倒になって、急に何か描きたくなり、なんとなくラモックスを描いた。そういえばジョルジュ・バタイユの文章にも「星を食べる人々」というのがあったはずだ。そこでは、レーモン・ルーセルがカミーユ・フラマリオンの家で夕食に出た星形のビスケットを後生大事にガラスのケースにしまって取っておいた、というエピソードが語られている。この三者とも僕が好きな作家だ。そしてルーセルのエピソードはいちいち納得できる。


11 - tagmezo

最近少し疲れている。先月は完全燃焼したと思った。ところがそうでもなかった。去年は特に、憂鬱な感情が外に現れないようにする術を身につけたつもりだった。しかし却って苛立ちや憎悪を心に住まわせることになってしまった。

一昨年の暮れに、僕は知人に洩らした。予感していることを。乃ち、翌年は試練の年になるだろうと。様々なことが立て続けに起きて、事態を一変させ、嘗てない苦しみの中で抗わなければいけない気がした。その通りだった。しかも結局は乗り越えることができたのだ。

その端的な表れが、長篇を脱稿したことだった。この制作は、僕が十余年来取り組んできた[物語と文体]という自分にとってのテーマ(小説そのもののテーマでなく)を、裸体同然に追い求めたものだった。小説の出来は勿論僕が判断することではない。ただ僕の手の出来は、この制作を通じて少し逞しくなっただろうという気がする。

しかし精神は疲弊してしまった。いま僕は、去年出会った愛すべき友達と海に出かけたときの僕とは違ってしまっている。のちに僕はそのときのことを私小説にして書くかもしれない。それくらい、魅力的な経験だった。だがいまの僕の胸の内にあるのは砂浜ではなく、夕暮れの砂漠で、しかも風が吹いていない。きのう、僕は凪いだ砂漠に古い足跡がくっきりと残っているのを見て、いたたまれなくなり、遠い蜃気楼を眺め出すのを苦々しく感じた。


きのうは『話の終わり』(L.デイヴィス)を読了した。夜、書店で『ほとんど記憶のない女』(L.デイヴィス)、『黄色い矢』(ペレーヴィン)を買った。少し読んだが、その後は『話の終わり』の感想など友達と話した。

けさは持参した『黄金の壺』(ホフマン)を一息に読んだ。金色の蛇ゼルペンティーナ……荒唐無稽な筋運びと散文詩的な世界を見た。

新幹線で帰宅し、書店に届いていた『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(ジュノ・ディアス)を購入した。


12 - 13:28

地震のことでは僕は無事です。

きのう深夜、携帯電話にメールが入ってきました。地震のため基地局が働かなかったり混線したりしたせいか、時刻がまちまちでした。

一応ここでも書いておこうと思って書きました。

静岡県でも停電があったり震度がまちまちでしたが、僕の住所では特に何事もありませんでした。本棚は扉付きですべて固定してあるので、大丈夫でした。


13 - 23:35計画停電

計画停電のグループ分け一覧をオシキミヅホさんがコピペしています。

計画停電グループ分け一覧

18 - 03:02昨日のこと

数日間、机に向かって紙とペンで書いている。朝『オスカー・ワオ』を読み終えた。読み応えがあった。(SF/FT 的な要素で読者を誘い出す辺りペレーヴィン『オモン・ラー』と似ている。)プラトーノフ『ジャン』を再読するつもり。


きのうまで何をしていたのか、あまり覚えていない。そして遂に寝た。なぜか碌に眠れなかったのだ。身の不安の為ではないと思う。理由は分からない。が、ともかくぼんやりしていたことは確かだ。自分の身内や、友達の存在を忘れがちだった。名前さえ思い浮かばなかった。もっと正しく言えば、自分の存在を忘れていた。

机に向かって現在の状況に何が出来るわけでもない。けれども、僕が為すべき事は何かを発信することではなかった。差し当たっては書き残すことだ。僕に journalism の精神があれば、ペンよりも先に足を使ったに違いない。しかし僕は僕で、この土地で記さなければならないことがあったのだ。

その「なければならない」は僕の根源から発せられたもので、思索に基づく論理ではない。義務感でも強迫観念でもない。これまでの「小説を書かなければならない」という判断と同じ根のものだ。そうしなければ(どうにも)ならないのだし、他人を誘って一緒にというつもりもない。良くも悪くも僕は他に生き方を知らない。


一人暮らしをしている友達が心細いというので、会社帰りに合流してラーメンを食べた。友達も落ち着いたが、僕も落ち着いた。話すうちにやがて笑いが生じだしたし、安心もした。


18 - 22:43

末の妹から ”お兄ちゃんの日記見たけど文が難しすぎる…病んでるの?” みたいなメールを受信した。たまたま実家に帰ってきた上の妹が、僕の携帯を使って、”お兄ちゃんは繊細なだけだから大丈夫だよ。誉めてやって” と返信。オスカー・ワオな気分だった。


20 - 22:51山麓周辺と太宰 ĉirkaŭ montopiedo kaj Dazai

きょうは、或る用事の為に、午前中から出かけて、山の方を一日中歩いた。くたびれたけれど帰りに映画を観た。

夜、家に帰って、本を読んだ。やはり太宰は凄い。あまり好きではないと思っていたが凄いことは間違いない。なぜなら文が気持ちよく、内容が面白いからだ。暗い太宰は好まないが、ユーモアに満ちた太宰は、凄いな面白いなと軽快に読み進められる。ぜひ見習うべきところだ。


22 - 11:39

Hieraŭ mi trinkis infuzaĵon kun geamikoj, kiuj estas Niŝikava, Kosaka, kaj Ai. Precipe, Niŝikava venis de Ŝizuoka spite tertreman influon. Ni babilis preninte tagmanĝon, kaj trinkis infuzaĵon de herbo. Estis gaje.


きのうは西河君たちとお茶を飲みながら話し、楽しく過ごした。ひと月前から花見をしようと計画していたのだったが、震災の影響もあるし、冷たい雨も降り、長く続いた冬の為に開花が遅れたこともあって、それは実現しなかった。しかし集まって話すだけでも楽しく過ごすことができた。話が面白い友人たちのおかげだ。

けさは『ジャン』(プラトーノフ)を再読した。何度読んでもすばらしいと思える作品だ。『果てしなき逃走』(ヨーゼフ・ロート)や『おそるべき子供たち』(コクトー)なども、けっして飽きない。『要約すると』の中でモームは、同じ本を何度も読むことは理知的でないと評しているが、僕もそれは理知的ではないと思う。しかし読書がすなわち理知的であると看做すのは偏った見方だ。読書は探検や小旅行でもある。

表題の「ジャン」とは下層民のイレギュラーが集まった砂漠の少数民族を指している。民族といっても文化を共有しているわけではない。母にすてられたチャガターエフが、兵役の半ば、その民族のもとへと派遣されるというのがこの小説のあらすじなのだが、堅苦しくはなく、静かに乾いている。


23 - 18:22また『ジャン』のこと

また繰り返してしまうけれど、『ジャン』はやはりすばらしい作品だ。冷静に考えると冒頭の数章とのちの章では温度差を感じるけど、特に後半の、描写の文章は僕を圧倒する。動的な描写、人物の描写、砂漠の様子、そしてそれぞれの心理と展開、それらすべてが並外れている。


しかし、たとえば終盤のギュリチャタイ(チャガターエフの母)の心理についての記述が、簡単に過ぎるような気がしないでもない。が、むしろその為にこそ終盤の風景が際立ってくるのに違いない。ジャンの少女アイドゥイムが幼少の割りにしっかり者すぎるきらいもあるけれど、『エンダーのゲーム』(オースン・カード)のような super-geknaboj (超-少年少女)と捉えてよいと思う――というのは、子供でありながら極限状態において最も強さを発揮する人物であり、かつ当初は最も弱々しかった人物として描かれていることで、ジャン民族の無気力さが強調されていると思うからだ。それは単に、大人に都合のいい子供(反-恐るべき子供)であるというのとは違う。


こうした人物造形についてはわが身に置き換えて考える必要もあるだろう。僕はアイドゥイムや、たとえば『夏への扉』(ハインライン)の少女のような人物を描こうとは(必要がなければ)思わない。だがこうした(母性的でもあり、ある意味では残忍な)年少者は、いちいち列挙はしないが数々の小説で重要な役回りを担っている。もっと研究しなければならないだろう。


鳥を殺すくだり、再び鳥を殺すくだり、何度か遭遇する羊たち、歯のない犬。プラトーノフの、動物とかかわる描き方にも脱帽するしかない。アイドゥイムが登場したことによって、妻の連れ子であったクセーニャの影が薄くなるが、僕としては砂漠に向かう以前の部分(回想を除いて)がもはや枕でしかなくなった気がした。砂漠での苛酷な状況が、町での不幸を拭い去ってしまった感があるというのもそうだが、何より動物たちのあざやかな描写にくらべて、町の人工的な描写は印象が弱い気がする。

全体的に、以前に読んだときよりも(毎回圧倒されてはいるけど)さらに鮮烈な感じがした。以前は個々の描写にうなっていたが、いまはその繋がりや展開の仕方を含めて、ひとくさりとして見ても感銘を受けている。


29 - 10:58この一週間

さまざまなことをこなしているうちに時間が経ってしまった。

学会のため京都に行っていた妹から、しおりのおみやげをもらった。

[JPEG]

『果てしなき逃走』(ロート)を再読したあと、いろいろ読んだけど忘れた。いまは『ほとんど記憶のない女』(L.デイヴィス)などを読んでいる。


今月は、前述したように東日本大震災のことでエッセイを書いた。

その後 Twitter に登録してもみた(utaidori)が、6日の日記に書いたような無自覚なイデオロギー支配を様々な場面で感じた。流れてくる短文(ログ)を反射的に信じたり評価/解釈したりするシステム(ゲームルール)として Twitter を扱っているユーザーは、特に巻き込まれやすいのではないかと思った。

ディスプレイや端末画面を眺めるだけで物事を把握しようとするような人には、フリーハンド的な思考は不可能に思われる。目についたノードを繋ぎ合わせるだけでは物を考えることはできない。


いろいろこなしているうちに気が塞いできた。体調も悪くなってきた。

そんなわけで、田舎道や山道を歩きに出かけた。

[JPEG] [JPEG]

今回行った先は、お気に入りのルートというほどでもないが数年ぶりに歩いた。ついでに近くの散歩道も歩いてみた。今回は行かなかったが、函南と鎌倉にはわりと長いウォーキングコースがあって、そちらへも久々に行ってみたいなと思った。

仕事が一段落したら長野や山梨の方へもまた行ってみたい。


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