牢獄機械文書群

かぜを引いた
Lundo 26-a 11:04

親しい友人が手術を終え退院した。その安堵の為か自分が体調を崩してしまった。情けないことだ。クリスマスも臥床のうちに過ぎた。 妹の誕生日にはクッションを贈った。モノクロの豚の写真がプリントされているやつ。妹も僕も豚が好きなのだ。

友人は自宅療養で一ヶ月以上外に出られない。何か本を送ろうと思ったが、小説だと思いつかない。最近読了した『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)が面白かったので折を見て送ろうと思う。以前読んだ『リアルの倫理』(アレンカ・ジュパンチッチ)が冒頭に引かれ(多分この本のことだろう)ていたのだが、ジュパンチッチの倫理(と欲動の原因)の問題は僕の心に迫るものがあった。『暇と退屈――』では「退屈」に的を定めて人間の欲動の原因を探っていたように思う。興味深く読んだ。

この数年僕は直に、あるいは小説を通じて、役割(ロール)について考えてきた。役割とは簡単にいえば「わたしは何ものか」に対する仮の答えで、「僕は漁師なので網を投げる」とか「私は明るい性格の人間なので場を盛り上げる」とかいった行動の理由になるものだ。でも実際は漁師でなくてもいいし、明るい性格でなくてもいい。自由に振る舞えばいい。「わたしは何ものでもない、わたしはただわたしである」そう認めた上で何をするか、というのが僕の興味だ。答えはまだ出ない。


病院帰りに本屋に寄った。ユリイカ1月号の巻末に友人の淵田仁君のエセーが掲載されている。在庫が売り切れていたので注文した。市役所に納品する分を借りてちょっとだけ見せてもらった。ベンヤミンの細かな字とアーカイブの街パリについて。パサージュ論を僕は読んだが内容はあまりおぼえていない。今でいうタグ付けのようなインデクスの付け方だった。玉石混淆というか情報の価値に頓着なくアーカイブするという点ではウェブ・クローラ的なのかもしれない。


的外れなことを言っているんじゃないかといつも不安だ。熟考し、また議論しないうちは意見をしっかり持つことさえできない。独善に陥るのを恐れすぎているのかもしれない。だが歯切れの良すぎる言葉は怪しんでかかるべきだ。特に今日のような状況下では。ナショナリズムはたやすく役割を提供し、動機を転倒させる(例えば「自分を表現したい」ならアートでやればいいのであってデモでおこなう理由はない。それは単に問題意識の低下を招くだけだと感じる)。来年も僕はまたこうした事を考え続けてゆくのだろうと思う。

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